到着。
出てきたのは、せつらの半分ほどの身長の老婆であった。
80歳ほどであろうか。
実に人の良さそうな老婆である。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
見た目より張りのある声で、黒白の客人を迎えた。
「お世話になる」
優雅な動きでメフィストは頭を下げた。
「お2人とも別嬪さんですねぇ。ようこそいらっしゃいました。何もお持て成し出来ませんが、ごゆるりとなさって下さいな」
「女将さん?」
これはせつらである。
老婆はにっこり笑って答えた。
「そういうことにしておきましょうかね――というのも、家は私と夫の夫婦2人だけですから」
2人が通されたのは、この旅館一番の部屋であった。
規模的には民宿に等しいが、建物は古く立派なものであった。
お茶を出した自称女将が出ていくと、せつらは漸く緊張を解いた。
「・・・・」
「・・・・」
車内と同じ空気が流れる。
せつらは視点の定まらぬ瞳で、目前の白い人物の様子を盗み見た。
メフィストは正座に両手を膝の上という、何とも固い姿勢で俯いたきり動かない。
「おい――」
「あの――」
気が合うのか合わないのか。
せつらが言葉を発したのと、メフィストがグイっと顔を上げて呟いたタイミングは見事に同じだった。
「・・・・」
「・・・・」
沈黙――。
「何?」
「せつらこそ、何かね?」
「いや・・・」
「・・・・」
この場に幻十かダミーがいたら、両者に殴りかかっているかもしれない。
「お風呂、行かない?」
この台詞がせつらの口から発せられ、それにメフィストが戸惑いがちに頷いて見せるまでに、これより更に12分の時を費やすことになる。
建物と同様に、風呂も大きくはないが良いものであった。
相変わらず殆ど沈黙であったが、それでも部屋ほど重いものではなかった。
原因の一つは、メフィストが内心慌てふためいていたことにある。
せつらの方で気がついていたか分からないが、白い医師にとっては人生で幾度とない動揺のしようであった。
他人と風呂に入るというのは、何かと経験の多いメフィスト医師にとって、初体験のことであった。
しかも、よりによって相手はせつらである。
医師としてではなく、恋人として見るせつらの裸体は清く美しく逞しかった。
結局、メフィストは先に上がってしまった。
“どこかで間違えたダミー”推薦の浴衣の帯を慣れない手つきで着ながら、メフィストは溜息をついた。
「折角の機会だというのに。せつらは嫌気が差しているかもしれないな」
小さく呟く声には自嘲の色が濃い。
メフィストは脱衣所に備え付けられている大きな鏡の前に立ち、合わせ目を直してみたり、鏡で後ろの具合を確認したりした。
鏡中の白い美貌の眉が顰められる。
慣れていない故に違和感を抱くのか、若干不満――というか不安の色が浮かんでいる。
くるりと振り返り、畳んだままのケープを見つめ、再び鏡に映る自身に戻す。
ふと閃いた顔をして、両手で黒髪を後ろで纏め上げてみたが、諦めたのかその手はすぐに下されてしまった。
髪がやや遅れて、流れるように落ちる。
そして深く長い溜息を一つ。
そのまま重い足取りで部屋へ戻った。
始終貸し切りの風呂に浸かりながら、せつらは溜息をついた。
「折角なのに。やっぱ、メフィスト、気が乗らなかったのかなぁ」
ちらりと美しい黒瞳を、数分前にメフィストが出ていった脱衣所への扉に向けた。
どうにか、空気を変えようと風呂に誘ってはみたものの、作戦は失敗に終わった。
違ったことと云えば、せつらの動揺が違った方向に働いていたくらいである。
せつらにとって、初めて見る魔界医師の、恋人の入浴現場であった。
こいつも入るのか、と思いながらチラッと見たその美しい姿。
長い髪を纏め上げもせず泳がせ、僅かに紅の入った白い肌。
因みに、こんな有様だったので、当然せつらはメフィストの様子に気づいていなかった。
「絶対ないよ――幻十ぉ」
全く情けない声である。
云うまでもなく“待ってる説”に対しての文句だ。
その後悶々と考え事をしていたせつらだったが、答えが出せるようなものもなく、結局諦めて風呂を出たのだった。
1つ開けた横のロッカーにあった白い服はなくなっている。
割と慣れた手つきで幻十推薦の浴衣を着る。
しかしその上の美貌は、明後日の方向を向いていた。
何か考え事をしている風だ。
「ま。そうしよう」
帯を締め終わったせつらは、そうぼんやり呟いた。
荷物をまとめ、出入口へ向かう。
先程までよりは、若干軽い足取りであろうか。
扉に手を掛ける直前、思い出したように戻り鏡に前に立った。
空いている片手で髪と浴衣の具合を整える。
「うん」
鏡の中の美青年に頷いて見せて、せつらは風呂場を出た。
4→
じれったい。