準備。
どこからか水の流れる音が響く青い部屋の中央。
黒檀のデスクの上で肘枕をしながら、部屋の主は何度目かの溜息を零した。
枕代わりとは反対の手には、一枚の小さな紙切れ。
それをじっと眺め、やはり何度目かになる呟きを漏らした。
「さて。どうしたものか・・・」
その、一見何の変哲もないように見える紙切れには、単色刷りの文字が書かれていた。
「『隠れ温泉ペア宿泊無料券』!?」
西新宿四丁目。せんべい屋奥の六畳間。
小さな卓袱台を挟んで、世にも不思議な三人組が座っていた。
「で、誘いに来た訳か」
と、仮面が心底呆れた声音を漏らした。
秋ふゆはるである。
突然電話で呼び出され、渋々来たとたん泣き付いてきた動顚色男を宥め宥め事情を聞いて今に至るのである。
「二人っきりで隠れ温泉ねぇ。意外と渋いよね、あの先生」
先程から、好奇心丸出しの様子で話を聞いていたインバネス姿の男が呟いた。
浪蘭幻十である。
「でも、温泉って辺り、もう待ってるのかもよ?」
「何を?―――っていうか、何で幻十がいるのさ」
「面白そうだったから」
せつらの所へ向かうふゆはるを見つけ、事情を聞いてついて来たのであった。
「帰れ」
「や」
云いながら幻十は菓子鉢のせんべいに手を伸ばす。
それを見たせつらは、素早く菓子鉢を引っ込めた。
「お客にそんな態度は如何なものかな?」
「お前は客じゃないからね」
「折角、相談にのってあげようかと思ったのに」
「お前には訊いてない」
「でも、経験者の方がいいでしょ?」
「お宅じゃあ、参考にならないよ」
「そんなことより――」
これはふゆはるである。溜息混じり――というか、八割溜息だ。
「で?オゥケィしたのか?」
「・・・・・だって」
いきなり勢いを失くし俯くせつら。その耳は仄かに赤い。
「オッケーしたのかね?じゃ、何悩んでるのさ?」
「あ、あのさぁ・・・・」
「な、何を持っていけばいい?」
黒檀のデスクの前で行ったり来たりを繰り返しながら、メフィストは呟いた。
いつもの氷のような声は影も見えない。
「そもそも、何故勝手にせつらと約束してくるのだね?私は何も――」
「ケープの留め具はいかがする?」
ぐだぐだとしているメフィストを完全無視で、テキパキと旅支度しているのは、最近メフィストの身の回りの諸事を――頼まれてもないのに――手伝っているダミーである。
実は、せつらの家へまで押し掛け誘ってのは、このダミーの仕業であった。
患者から治療費代わりに貰った区外の隠れ温泉のペアチケットを見て溜息ばかりのメフィストに、痺れを切らして、独断でせつらを誘ったのだった。
メフィストには事後報告である。
「無視かね」
「せつらも了解したのだから、今更どうこう仰っても。」
「無理強いはしてないだろうな」
「全く」
「・・・・」
黙り込んだメフィストに呆れたように軽く肩を上げ、ダミーは旅行鞄に揃えた持ち物を入れ始めた。
「・・・寝るときは、どうするのだね?」
「浴衣くらいある。それになさればいい」
「浴衣・・・」
「どうなさったね?」
「着たことなどないのだが・・・」
「荷物はあまり多くないほうがいい。それに――」
「?」
「温泉には浴衣。王道だ」
「・・・・・」
ダミーの言葉に、忽ち美しい眉が顰められていく。
「そういうことは何処で覚えて来るのかね」
「主の為に日々勉強事ばかりだ。主の世話も楽ではございません」
白い医師は、目前のダミーの何が問題だったのかと製造手順を思い返した。
さて、せんべい屋である。
「他は、こんなところだろう」
鞄の中身を確認しながら呟いたのは、何だかんだいって世話焼きなふゆはるである。
「問題は着替えぐらいで・・・。決まったか?」
声をかけながら向けられたふゆはるの視線の先では、洋服が派手に広がっている。
「ん~・・・こっちの方が良くない?」
「僕はこっちだね」
「まだ決まらんのか」
「だって、幻十じゃ信用ない」
「じゃ、一人で決めればよかろう。僕は見てるだけにするよ」
「・・・・」
「そもそもせつら。お前こんなに持ってたのか、服」
どれも同じに見える――とふゆはる。そう言ってみたところで、考えてみれば、ここにいる三人―――
黒コート。洗いざらしのジーパンに白シャツ。インバネス。
趣味がどうとかいう以前に、季節すら無視である。
強いて言えば、幻十が――ターク公のお陰に――割とレパートリーがある程度だ。
「このブルーのハイネックは?」
「古い。それ」
「も何でもいいだろう。帰るぞ。花屋は忙しい」
「もうちょっとだけ」
コートを身体に当てたままのせつらの目が、ふゆはるの背後に止まった。
「何か、荷物少なくない?」
云われて幻十もそちらに目を遣る。
「そうか?」
「あんなもんじゃない?」
「うーん・・・」
「手ぶらでも海外に行ける」
「幻十だけだろ」
「特に必要ないだろう。ビジネスホテルじゃないから洗面用具くらいは持ってった方がいいだろうが・・・
浴衣くらいならあるだろ」
「え?」
「なんだ」
「浴衣・・・・って」
「何言ってんのさ、せつら。決まってるだろ?」
幻十は華やかな笑顔で云う。
「?」
「温泉には浴衣。王道でしょ」
こうして、準備は整ったのである。
2→
私の脳内では、幻十ちゃんとあの”ダミー”ちゃんが大活躍している、今日この頃。
ダミーちゃんの方は、特に気に入ってたりします。多数いる魔界医師ダミーの総帥みたいな(笑)
勿論、オリジナル(?)第一です。オリジナルのためなら何でもします。恋愛の世話も。
でも、何だかんだで、自由にさせておくオリジナルメフィ。
せつらのブルーのハイネック・・・気付いた方、いますよね。
あれは、もう着ないのかなぁ、せっちゃん。(笑)