「あと、ひとつ――」
闇の中で、美しく通る声だけが響いた。
すっ――と
闇の中で、白く細い手が闇に――否、闇に溶け込んだそれに触れた。
「あとひとつが――」
声は、希望と絶望とが入り混じっていた。
闇より黒く長い髪が、サラサラと微かな音をたてながら揺れる。
その隙間から現れた貌は、美しく、ただ美しい。
白い美貌は、闇に溶けるそれを仰いだ。
それは、まったく不思議な装置の様であった。
暫くそのまま見上げていた美貌は、不意に頬笑みを湛えた。
「私の到達点――そして、友…」
彼――ナリスはそう語りかけた。

ふと――
「誰だ」
ナリスは背後の闇に向かって、鋭く、しかしあくまで静かな声を放った。
ゆらり、と。
「・・・・なっ」
音もなく表れたのは――
(イリス――)
闇の中でも純白に輝く白いケープを纏い、彼と同じような漆黒に輝く長い髪を自然に流した
――まさにイリスであった。
この世に二人と無き麗人、美貌と噂されるナリスでさえ、息をのむ程の美貌であった。
治療を――
イリスは、月光の声で云った。
「治療を行いに参上した。ドクター・メフィスト、という」
音もなく、この世で最も美しい動きで彼――ドクター・メフィストは頭を下げた。





「――ドクター・・・?」
やっとのことで、ナリスはそれだけ呟いた。
「〈新宿〉で私立病院を」
「し、シンジュク?聞いたことはない、が…」
メフィストは、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「先ほど、治療といったね」
「確かに」
「それは・・・私の?」
「そうなる」
「あいにくだが、私は健康でいるつもりだけれど?」
メフィストの黒い瞳は、真っ直ぐナリスを見つめた。
「それは――」
ふと、その黒瞳はナリスの背後へ移された。
「え?」
思わずナリスも振り向き、見上げた。
「ああ。これは・・・パロの、この国の王家に伝わる古代機械で――」
不思議と、気がついた時にはナリスは答えていた。
そんなナリスの言葉を聞いているのかいないのか、メフィストはゆっくりと歩み寄ってきた。
そして、ナリスと同じ白く美しい手が、先程のナリスと同じように、その機械に触れる。
「・・・・ほう」
メフィストの白い手がゆっくりとした動きで横へと流れていくのを、ナリスはただじっと見つめていた。
「これは、厄介な機械だ」
「わ、解る――お解りになるの?」
「さて。全ては解らないが・・・」
「そ、そんな・・・どこまで、どれほどお解りになったの?今の、ほんの僅かな時間に!私がずっと――ずっと研究してきたこの子の!!」
しかし、メフィストはそれには答えず、美しい微笑みを浮かべた貌でナリスの方を向いた。
「敬語は使わなくて結構。貴方は、私の患者だ」
「患者・・・って」
「研究とは――?この世界のことは私には少々知識不足のようだ」
「この世界?そう言えば、さっき云っていたシンジュクとはどこなの?国?地域?それとも――」
「街――だ」
「街――聞いた事がないな。どんなところ?」
ナリスは、いつの間にかメフィストに強く興味を抱いていた。
勿論、姿を現した時から強い警戒と興味を抱いてはいたし、今もそれは変わらない。
しかし、時間も保証もないのにも拘わらず、ナリスは自分でも気づかぬうちに、目の前の美しく謎に満ちたイリスに心を許していたのだった。
「魔に魅入られた、破壊と呪の街だ」
「魔に・・・それは――」
「私には、とても住みやすいところだ。或いは、私は其処でしか生きられぬかもしれんな」
「一体、何故?」
「魔に魅入られているのか、私自身が魔か・・・」
「そこは、この国とは法則が違う?世界は、どのように回っている?」
興奮しきって我を忘れた子供のように、ナリスは黒い瞳を輝かせてメフィストに話を求め続けた。
次から次へと放たれるナリスの好奇心に、メフィストは淀みなく、包み込むように応えていく。
「不思議な――とても素敵な世界・・・」
ナリスは、うっとりと、見たこともない魔に魅入られた街に想いを馳せた。
「ところで――」
「なに?メフィスト」
「君は大分、この世界のことに明るいと見える」
「そうね。それが私の野望でもある。世の中は、面白く、途轍もなくつまらないものだよ」
「ほう」
「でも、やはり分からないことだらけだ。人間はなんと非力なのだろう。この世界に生きているのに、この世界を理解する力もない。ヤーンは意地悪だね」
「神にとって、都合がいい形だ」
「そう、だね。それでも、私は出来ることはやってきたつもりだよ。知識も、沢山詰め込んだ。」
「この世界は、どこまで君に正体を現したね?」
「ほんの、一握り――だろうと思う。くやしいけれど・・・そうだ。今度は私から話そう。私ばかり聞いていたのでは不公平だからね。何から話そうか、メフィスト?」
そこまで云って、ナリスは驚いたような顔をした。
「あ!こんなところに立たせたままだった!隣室へ行こう。そこなら簡易だがソファもあるし、バシャ酒くらいはある。そっちで話そう、メフィスト。いい?」
「ふむ。ではお言葉に甘えることにしよう」
ふたりは、どちらからともなく、美しく微笑んだ。




「ほう――これがバシャ酒・・・」
グラスを持ち上げ、興味深そうにメフィストは眺めていた。
ナリスは、別のグラスを持ち、彼の隣に腰を下ろした。
「こっちがカラム水。これも初めて?」
「こちらにはないな」
「そう。どちらも私の国では一般的なものだよ。本当に何もかも違うのだね、私の世界と、メフィストの世界は」
「大元は違いはせんだろう」
「そうなのだろうね。人は、やはり人だ」
どこか淋しそうな瞳で、ナリスは自身の持つグラスを見つめた。
が、すぐに先程までの明るく美しい表情で隣に座るメフィストに目を遣った。
メフィストは白いのどを動かしながら、ナリスの渡したバシャ酒を飲んでいる。
その美しさに、思わずナリスはうっとりとした眼差しで見つめた。
「変わった味だ」
「それは、バシャの実からつくるのだよ――」
メフィストの知らないことを話すということに、ナリスは柔らかい喜びと楽しみを覚えていた。
まるで初めて知った世界を自慢する子供のように話すナリスの言葉を、メフィストは静かに聞いていた。
「次は、何から話そうか?何か希望はある?」
「医学は、詳しいかね?」
「そうね、人並みよりは。私も専門的に学んだ訳ではないのだけれど・・・」
「構わんよ。こちらでは、私は無学同然のようだ」




それから、どれ程の時が過ぎたのか。
二人の間で会話が途切れることはなかった。
時にはナリスがメフィストに問いかけ、メフィストがナリスに首を傾げて見せた。
「時とは、一体何だと思うかね?」
メフィストは、優しく冷たい笑顔でナリスに問うた。
「全てが一瞬のもので、全て繋がっているもの。そして、全てが複雑に絡み合っていて、全てバラバラに離れたまま、一切近づこうとしないもの。けれど、すべて同じもの――ヤーンと、そしてヤヌスの前に転がる、他愛もない玩具――」
「ヤーンとヤヌス…」
「どうかしたの、メフィスト?突然だね」
それには答えず、メフィストはすっと立ち上がった。
「――なあに?」
後を追ってナリスも立ち上がる。

ゆっくりと、メフィストがナリスの方を向いた。
「治療は、ここまでとしよう」
「え?」
「君には、此処まででよかろう。また、此処までしか、私にはできん」
「どういう、意味?治療って?」
「君の、存在――とでも云おうか」
「存在――?」
「ヤーンとやらの、導きだと思いたまえ」
「帰るというの、メフィスト?魔に魅入られた街へ?」
「云ったはずだ。私は治療の為に此処へ来た。そして、私は彼処でなければ生きられん」
「また、来てくれるの?」
縋り付くような瞳のナリスに、美しい医師は無言で首を振って見せた。
「そ、んな――治療が終わったって・・・一体」
戸惑いを隠せないナリスは、無意識にメフィストの白いケープにしがみ付いた。
メフィストは優しい眼差しで見下ろし、そして華奢なナリスの腰へ腕を廻して引き寄せた。
「――メフィスト。どうしても行ってしまうの?私は――私は、また独りになってしまう・・・・」
ケープに顔を押し付け必死にしがみつくナリスの髪を、メフィストは優しく、包み込むように撫でた。
「もし、望むならば――」
「・・・・?」
ナリスの顔が、僅かな希望を湛えて上がる。
「いつか、来るといい――〈新宿〉へ。魔界都市へ」
「魔界、都市――」
「いつか、ヤーンに見放された時・・・」
「ヤーンに?」
「あの街は、拒みはせんよ」
「貴方は?メフィスト」
「勿論」
「私は、貴方を――」
メフィストは、縋りつくナリスの白い額に、赤い唇を落とした。
「待っていよう、私の街で――愛しいナリス」


瞳を閉じたナリスの唇に、優しく冷たい感触が重なる。
それが消えたころ、月の気配は遠く消えていった。













誰か、ナリスさまに救いを!!(笑)
確かこれは、外伝の『星/の船、風/の翼』読んだ後に書いたもの。(本編は21巻くらいだったかと)
あの方には、ぜひ〈新宿〉へ来てほしいものです。

因みに、メフィのいう「愛しい」と、ナリスさまの抱く想いは、恋人というよりは親子愛に近いかも。
ナリスさまには、絶対的に大きな存在、彼を理解し包容する人が必要なんじゃないかなぁ・・・と思ったので――。
ドクターなら、ぴったりじゃん!!(自己満)美しいし!!(をい)

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