2月中旬のこの日。
せつらは珍しく自主的にメフィスト病院のロビーに足を踏み入れていた。
朝、という時間など、この病院においては何の意味も持たないが、それでも、今朝のロビーは何時も以上ににぎわっていた。
病院の自動ドアが開き、せつらが踏み込んだ途端に、ロビーの空気がピリリと硬くなる。
せつらは春麗な顔を崩さずサッと足を進めた。
ざわり、と空気がざわめく。

「あ、あの――」
「なあに?」
背後からの声に、心の奥でうんざりするのを押し隠して振り返る。
そこには、可憐な少女の姿。
手には綺麗にラッピングされた小さな箱。
良く見れば、ロビーにいる男女の大半の手には、綺麗な箱や袋…。
せつらは、はぁと小さな溜息を零すと、目前の勇敢な少女含むロビーの人々に向かって特別な笑顔を浮かべた。
「ごめんね」
空気が止まってしまった空間にサッと踵を返し、せつらは目的の部屋へと向かう。
通り過ぎた受付の日捲りカレンダーは、今日を14日と告げていた。


「おや、せつら。どうしたね?定期健診は明後日のはずだが?」
ノックもなく開けた扉の向こうで、メフィストは美しく立っていた。
その姿に、やあ、と掛けようとした声は、そのまま飲み込まれた。
代わりに、動揺した疑問符が飛び出す。
「おま…何、それ?」
純白のケープからスラリと伸びた腕には、先程見たような綺麗な箱や紙袋の山。
「バレンタイン、だそうだ。患者やスタッフから頂いた」
「頂くなよ」
「はて」
「浮気者」
「何故そうなる。君だって貰っているのだろう?受付の方に、君の診察予定が無いかという問い合わせが多いそうだが」
「貰ってないよ。アフターケアはよろしく、藪」
「珍しいな。昨年は鼻の下を伸ばして貰っていたくせに。私に自慢しに来たのは、何処のせんべい屋だったか?」
「西新宿の名店じゃない?――っていうか鼻の下なんか伸ばしてないし」
そんなことより――と、せつらはチョコを抱えた恋人に詰め寄った。
「本命、ちょーだい?」

「残念ながら、用意しておらん」
恋人から渡されたのは、チョコではなく戸惑いがちの台詞。
「しておらんって…。まさか、チョコレート会社の陰謀に乗せられるなど、これだから女は――とか言い出すなよ?」
そんなこと言ったら切るぞ、と不貞腐れてやると、メフィストは黒檀のデスクにチョコの山を下ろして溜息をついた。
「そうは言わんよ。思ってはいるが…。一応、ひと月も前から言われ続けてたからな」
「じゃあ、何だよ」
「うむ…」
「おい」
「どの様なものがいいのか、さっぱり分からん」
「何でもいいからちょーだい!」
「板チョコでもいいのかね?」
「…口移し?」
「止めよう」
「おい」
「ふむ。色々見たのだが」
「見ただけ?」
「例のダミー曰く、本命は手作りだとか」
「……まあ、そうともいうけど」
「しかし君は買ってくれと言う。ということは、つまり、義理で十分ということかね?」
なんでそうなる、と漆黒の頭を叩く。
あいた、と抑揚なく応える恋人。
「要は気持ちだよ、気持ち。手作りなんかしてる暇あんの?」
「無い事もない」
「じゃあ、作って?」
「面倒だな」
「そらみろ」
「ともかく、結局決められなかった事に変わりはない。と言う訳だから――」
今夜、一緒に買いに行ってくれるかね?――と、彼は悪戯っ気たっぷりの笑顔で囁いた。



バレンタインというのは、要はチョコレートを渡せるか、貰えるか、と言うことだけであって、クリスマスの様な賑わいがある訳ではない。
この街なら尚更だ。
それでも、街はどこか浮足立っていて、仄かに甘い香りが漂っていた。
やはり〈新宿〉といえども、日本であることには変わりがない様だ。
時間より少し前に、メフィストは待ち合わせの場所に到着した。
恋人はまだのようだ。
星も月も見えぬ〈新宿〉の空を見上げながら、メフィストはうっすらと微笑んだ。
今朝、院長室へ着たせつらとの遣り取りが思い出される。

手ぶらで入って来たせつら。これ見よがしにチョコレートを抱えた自分。
腕の中のチョコを見て不機嫌になるせつら。何も持っていない事に上機嫌になる自分。
何も貰わなかったと言った彼。貰うなと言ってもらえた私。

僕は独占欲が強いからね、と以前彼は言っていたけれど。
意外にこちらの方がよっぽど強いのではないかと、メフィストは感じていた。
今でさえ、そうなのだから。
せつらは気付いているのだろうか。
2人で街を歩く事で、区民に見せびらかしたいだけである事に。
せつらにチョコレートを渡していいのは、この私だけなのだ、と。

「よ」
不意に、闇の中から春風のような声が聞こえて来た。
「わざわざすまない」
「いーよ。こうでもしないと、貰えないみたいだからね」
お前は我侭だからね、と言いながら、彼はメフィストの手を取って歩き出した。
その動きが自然であった事にメフィストは秘かに微笑して、引かれるままに自分も足を踏み出した。
「何処に行くのだね?」
「ん?そこの駄菓子屋」
「え?」
あ、ちょっと――と声を上げても、せつらの手は解けず、歩くスピードも変わらない。
ロクな抵抗も出来ない内に、小さな駄菓子屋に着いてしまった。
やっているのかいないのか分からない様な店であった。
お情け程度の妖物よけの札が貼ってある戸を開け、せつらは中に入った。
もちろん、メフィストも引っ張られる形でそれに続く。
「いらっしゃい」
掠れた女の声は聞こえるが、姿は見えない。
「コレ、2つ」
「え?…ど、どれかね、せつら」
何の迷いもなく品物を決め、何故かせつら自身が勘定をして、気が付けば既に店の外に出ていた。
「い、一体何を買ったのかね?しかも自分で…」
「コレ」
せつらは、可愛らしい微笑みの前に、白い手を持ちあげた。
その指に挟まれているのは、小さな袋が二つ。
「…な、に――」
「五円チョコ」
「ごっ――!?」
驚いて言葉もないまま、口をパクパクさせるメフィストに、せつらは笑顔を向けたまま言った。
「さ、帰るよ、メフィスト」



そろそろ夕食の支度をしているだろう自分の西新宿の一角。
せつらに引っ張られて来たメフィストは、背後で散々、何故だね、だの何を考えているのかね、だのと騒ぎ続けている。
その割には、腕を払う訳でもなく踏ん張ろうとするでもなく、大人しく付いてきている。
主人のいないせんべい屋兼自宅は、真っ暗であった。
裏口から入り込む。
冷え切った部屋の空気に身ぶるいして、すぐに灯りと暖房をつける。
せつらが何か言わずとも、メフィストは勝手に上がり込み、勝手に卓袱台に座り込んだ。
お茶淹れようか?と問うと、結構だ、と返って来た。
「さあ、せつら。どう言うことだね。説明したまえ」
「説明って?コレが食べたかったんだよ」
「五円チョコを、かね?」
「五円チョコを、だよ」
「自分で払ったではないか。私は、君へのプレゼントを買うつもりでいたのだが…?」
「だから、これでいいってば」
「何がしたい?」
「口移し」
「……」
せつらの言葉に、メフィストは耳まで赤く染める。
可愛いなぁ、と思いつつ、これがアノ魔界医師かねぇ、とも思う。
「じょーだん」
そう言えば、明らかにホッとした顔をする。
「ほ、本当かね」
「ホント、ホント―――半分は」
「……」
訝しそうにこちらを見、どう言うことかねと問うてくるメフィストに、せつらは苦笑を洩らした。
「前に言っただろう?僕は独占欲が強いって」「私、と名乗る君もな」
「つまり、そういうこと」
「…?」
「今日1日――っても、もうあと数時間だけど――兎に角、今日はもう外出禁止だ」
「外出禁止って、せつら――」
「今日は何かと寄って来るから。浮気者に悪い虫が付かないようにね」
「悪い虫って、しかし大半は女だ」
女、の所だけ妙な空気が流れた事は気にしないでおく。
「お前、分かってる?今日貰ったチョコレート、半分近くは男だって」
「そう言えば、男性もいたな」
「そう言えばってお前なぁ。それ、逆チョコっていうんだぞ?」
「逆?」
「男から女に渡すチョコ。つまり、お前をそういう対象としてみてるってこと」
「女に、かね」
美貌に怒りがチラつく。
「女と言うより、受だね」
「それは、せつらだけで十分だ」
顔を顰めてはいるが、内心照れているようだ。
その辺の自覚がある辺りは、有り難い――と思うことにしている。
「僕も、そう願いたいね」
「ではいいではないか」
「僕が嫌なの。私、もね。お前にチョコ渡そうと頑張ってる人見るのが」
「……」
「分かる?お前みたいな恋人を持つと、人間不信になるの」
「君みたいな恋人を持つと、自慢家になるのだが」
「そりゃあ、お前の方が美人だからね」
「そんな事もあるまい。君の周りは常に美しい女性ばかりではないか」
「嫉妬してくれるのはありがたいけどね。あ、ちゃんと丁重にお断りしてるよ」
「ほう…」
「少しは自覚持ちなさいって話。分かった?」
「…なんの、だね」
「だから、そう言うこと」
「……」
幾分悔しそうに考え込んでしまったメフィストを眺めてから、せつらは立ち上がった。
「夕飯、出前でいいだろ?」
答えも聞かずコートを着こみ、三和土に降りる。
すぐ近くに店があるため、普段から出前は直接行く事にしている。
「五円チョコはどうするのだね?」
背後からメフィストの声がかかる。
食後だよ、と振り向きもせずに答える。
「く、口移しはしないが?」
怒っているのか、焦っているのか、照れているのか分からない。
チョコは僕が買ったんだけど、と靴を履きながら言うと、ならば十円払おう、と返された。
「ケチ」
振り返ると、類まれな美人が口を尖らせていた。
「君がいいと言ったのだろう?」
不平をいう恋人を見つめつつ、後ろ手に戸を開いた。
冷たい空気が流れ込んでくる。
せつらは、スルリと隙間から外へ出ると、戸の隙間から満面の笑みをメフィストに向けた。
「口移し付きでね」
ウィンクもおまけに付けてそれだけ言うと、慌てて飛んで来る文句の言葉を戸で打ち切ってしまった。
「今夜は冷えるかなぁ」
漆黒の空に向かって、ふわりと白い息を吐き出す。
その行き先を見る事もなく、せつらは自然に零れる笑みを隠そうともしないで、冷たい夜へ一歩踏み出した。








バレンタイン。
14日に間に合わせようと、慌てて書きました・・・・(汗

一生懸命なせつらさんと、ちょっと大人なドクター・・・を書こうか、と思っていたのに。
何処へ行ったやら。
どうして烏兎の書くこの2人は どあほ になってしまうのでしょうか。
バカップル――っていうか、各々に莫迦。

取り敢えず、形だけでも、バレンタインディなので・・・

どうでもいいかもしれないけど、駄菓子屋ってあるのかなぁ、〈新宿〉に・・・



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