桜花綺譚
藤紫の夕闇が、<メフィスト病院>の白亜の壁面を染める、うららかな春の宵であった。
いつもどおり手土産の袋入りせんべいを片手に、部屋の主以外には自由に入れぬはずの院長室に傍若無人に踏み込んだ黒衣の若者は、開口一番、愛用の黒檀の大机で書き物をしていた白い医師にのほほんと宣言した。
「花見に行こう」
年がら年中小春日和のようなこの男の口から出るには実にふさわしい提案であったが、持ちかけられた側のメフィストは悩んだ。
折角の想い人の誘いに乗りたいのはやまやまである。
そもそも、そんな機会は滅多にない。
が、生憎と今夜は仕事が立て込んでいる。
術後の経過を観察したい患者もいた。
「実に魅力的なお誘いなのだがね…今夜はどうあっても外せそうにない。すまないが、明日か明後日では?」
後ろ髪をぐいぐいと引っ張られる思いで今日は無理だと告げると、せつらは何やら考え込んでいたが、やがてふい、と無言で出て行ってしまった。
機嫌を損ねたか、と胃がキリキリ痛むような心境のメフィストであったが、致し方ない。
そのまま書類仕事を終わらせ、回診に出た。
ひととおりの巡回を終え、メフィストが自室への帰路を辿る頃には既に夜半が近かった。
夢の中から抜け出して来たように優艶な、その白い姿の歩みがぴたりと止まったのは扉の前に佇む黒衣の若者を認めたためであった。
「一体、どうしたのかね、せつら…」
「遅い」
コンビニ袋を下げ、不機嫌そうに言ったせつらはメフィストの腕を掴むと有無を言わさず彼が来た方角へと歩き出した。
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「何処へ行くつもりかね?」
「花見」
ぐいぐいと強引に引っ張られながら当然の疑問を投げ掛けた医師に、返された答えは実に簡潔明瞭。
しかし、向かっている方角は玄関ホールではなく、病棟のある方角だ。
不審げなメフィストに構わず、エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押したせつらは何も話すことはない、というように口を噤んだまま。
当然、メフィストの方からも下手に話しかけることは出来ず、気まずい沈黙に甘んじるしかない。
霊障病棟の最上階から廊下を抜け、更に階段を上がって辿り着いた先は――屋上だった。
眼下を見下ろせば、常夜灯の明かりに白々と浮かび上がる桜の木々。
<メフィスト病院>の庭の桜も満開である。
「おまえのとこにも、こんなに桜があるじゃないか」
「そうか……そうだったな」
せつらの言葉に呆然としたように頷き、その光景に見入るメフィストを眺めるせつらはどこか得意げであった。
「ほら」
不意に頬に押し付けられた冷たさに白い医師が振り向くと、相手はそのまま手にしたコップ酒を押し付けてきた。
そこらのコンビニで買える安物である。
それを受け取ると、今度は手首にかけたコンビニ袋からチーズ入りかまぼこを取り出して投げ渡し、次いで自分の分を出してしゃがみ込む。
「花見酒とは、実に結構。――ありがたくいただこう」
小さく笑みを浮かべたメフィストもまた、せつらの隣に座り込んだ。
乾杯、とコップを打ち合わせ、酒を口に含む。
苦いばかりの下品な安酒はこの二人には全く似つかわしいものではなかったが、今のメフィストには接待で飲まされる一本何百万もするような高級酒よりも余程旨く感じられた。
「しかし、どういう風の吹き回しかね?」
「――別に。おまえ顔色悪かったし、たまには息抜きでもしちゃどうかと思っただけさ」
治療にヘマされちゃぁ困るしね、とチーかまを頬張り答えるせんべい屋の頬は早くも酔いが回ったか、赤い。
「医者の不養生とは言うけど、おまえのは度を越してる。それで肝心の僕の治療のときに疲れを出されちゃたまんないじゃないか」
「なるほど。留意するとしよう」
勝手な言い分だが、それを聞いたメフィストの口元はあからさまに綻んでいる。
その様子を横目にしたせつらは、ふん、と鼻を鳴らしてコップ酒を傾けた。
黒白の美しき魔人たちが二人、雁首並べて一昔前の不良学生のように屋上で飲酒とは、<区民>が知れば目を剥くだろう光景であろうが――妙に楽しくなってしまったメフィストはくすくすと小さく笑い声を上げる。
今日はアルコール分解酵素を入れていないために、酔いばかりは回る安酒の酩酊感が軽く体内を回っている。
「あ、こら何笑ってんだよ、メフィストのくせになまいきだ」
文句を言うせつらは、とメフィストがチーかまの包装を形のよい犬歯で食い千切りながら視線を向けると、既に真っ赤に出来上がりかけている。
「……そのぐらいにしておきたまえ。この酒、おそらく悪酔いをする」
溜息を吐きながら酒を取り上げ、代わりにチーかまを握らせる。
まだ半分ほど残っていたせつらの酒は、一瞬考えてから一息に胃袋に処分した。
「………歯型ついてる」
包装を食い破った時についたのだろう、医師のそれがお気に召さなかったらしい。
それなら私が食べる、とメフィストが言うとせつらはむきになったように棒状のかまぼこを齧った。
「おまえは可愛げってものが足りない。酒飲んだらちょっとぐらい赤くなるのが礼儀ってもんじゃないか。それを涼しい真っ白な顔して、面白くない」
「生憎、顔に出ない性質でな」
「この病院の桜までお前みたいに真っ白だ。桜の下には死体が埋まってるんなら、もっと赤くなってなきゃいけないだろ、どうせごろごろしてるんだろうし」
「いや、当院では血の一滴まで無駄にはしておらん。……骨しか埋めていないせいで、白いのだろう」
「……」
せつらの言い分は支離滅裂である。
見事なまでの絡み酒の酔っ払いを飄々とあしらう<魔界医師>の言葉も一体どこまでが本気やら分からぬが、端然とした表情のままのこの男も案外酔っているのかもしれなかった。
が、少なくとも目の焦点も怪しく無茶苦茶を並べ立てるせつらを放っておくのはまずいと判断できるほどには正気だったメフィストは、ふらついている彼を支えようとしたが、引き寄せるまでもなくせつらの方から身を預けてきた。
そこまでベロンベロンになっているか、と改めて様子を診ようとした医師だが、ケープの襟首を乱暴に引っ張られて驚く。
繊細な黄金の留め具とその下のシャツの華奢なボタンを引き千切らんばかりに強引に外したせつらは、真珠のように白い肌に唇を落とし、きつく吸う。
そればかりか、かぷりと歯を立てて噛み付きさえする。
<魔界医師>の白い胸元に、花弁のように転々と紅色が散った。
「…っ、せつらっ……」
「これじゃ、ちょっと赤すぎるんだよなあ」
しかしせつらは秀でた眉を寄せ、なにやら不満の様子だ。
「何が、なのか私にも理解できるよう説明してくれるかね?」
呆気にとられてされるままになっていたメフィストの、淡く上気した美貌を定まらない目線で見上げ、とっくりと検分したせつらはそう、これ。とおもむろに頷いた。
「桜はこーゆー色がいい」
「……………」
言うだけ言って寝てしまった酒癖の悪い想い人を抱え、途方に暮れるしかないドクター・メフィストであった。
【END】
『幻由人生』の伯さまから頂きました。
フリーリク受付ます、のお言葉に飛びついて、黒白で「桜」を主に何か――と意味不明なリクエストをお願いした所、こんなに素敵なssになってかえってきましたvvv
烏兎にはこんな雰囲気の2人は、どう逆立ちしたって無理です(涙)
そして、何と!!
おまけのイラストまで頂きましたっ!!→
伯さま。本当にありがとうございましたっ!!
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