とびらの向こうは、あさからずっとさわがしかった。
何かあったのだろう。
気だるい体をゆっくりとベッドから引きはがし、わたしはとびらを見つめた。
ひとつしかない小さな窓からは、午後の日ざしがなさけ程度にせまい室内をあらわにしている。
おかしいと思ったのはきのうの夜からだった。
そのときは、今と反対に恐ろしいくらいのセイジャクだった。
どの男も、来なかった。
とびらの向こうでは人の行き来するやかましい足音ばかりがひびいていた。
余ほど大ごとなのだろうか。
ようやく、外のできごとにキョウミを持ちはじめた。
ガタッ――
とつぜんとびらが開かれ、男が入ってきた。
知っている男だ。
その顔はしかし、いつものいやらしい吐き気のするようなものではなく、ずっと恐ろしいギョウソウをしていた。
その男がまっすぐにこちらをにらみ付けながら近づいてくるのを、わたしは他人ごとのように見つめていた。
「ぐ、あっ!!」
いつも体をなでまわす男の手が、首にかかり、そのまま強い力でしめ上げてきた。
気道がキョウセイ的にふさがれる。
「くそっ、だから嫌だったんだ。こんな事になりやがって――」
男はだれにいうでもなく、わめきながら、両手に力を加える。
「・・・ぁ・・・かはっ・・・っ」
テイコウしてもムダなことはわかりきっているし、そもそもする理由も見つからない。
それでも、呼吸が止められ、頭に血液が上っていくのを感じると、体中のDNAがテイコウする。
男の汚らしい手を引きはがそうと、わたしは無イシキに爪を立てる。
フイに、男の手の力がわずかにゆるまった。
ベッドの横で、ゴロゴロと重たいものがころがる音がした。
顔や体に、生あたたかいカンカクが広がった。
「ぅあっ!?」
体が急げきに圧迫された。
男の体がのしかかってきたと分かったのは、ようよう首に巻きついた手を引きはがし、何度かむせた後だった。
脂ばかりがついたたるんだ体の下じきでは身うごきが取れない。
必死にもがいているうちに、男の体がフイと宙に持ちあがった。
ようやく、まともに息ができるようになったところで、もう一度大きくせき込んだ。
ぼんやりする頭で、ベッドのワキに目をやる。
男のたるんだ身体がたおれている。
そのまわりは、赤黒く染まっている。
その先。
少しはなれたところで、男が恐ろしい顔でこちらをにらんでいた。
赤黒い中に、男の顔だけが浮かんでいた。
手もとに目をうつす。
ま白い服と、ま白いシーツ。それに同じ色のジシンの手。
それが、朱い。
あざやかな朱に染まっている。
わたしは無ヒョウジョウに首をかしげた。
なんてきれいな朱だろう。
そしてゆっくりと、シセンをもちあげた。
死神――
そう、わたしは思った。
しっこくのコートを身にまとい、氷のような瞳をもったうつくしい男が、そこに立っていた。
きっとこの世でもっともうつくしいにちがいない。
うつくしい死神は、ビドウだにせずこちらを見つめていた。
これで、やっと――
安息の地をえられる喜びに、わたしは力なくほほえんで見せた。
わたしは、ゆっくりとまぶたを閉じた。
不意に気配を感じて、読みかけの本から視線を上げた。
いつの間にか陽はかたむき、部屋は紅く染まっていた。
私はいくぶん慌てて立ち上がると、軽く手櫛をかけながらドアへとかけていった。
ドアを開くと、丁度到着した、というタイミングで立ちつくした男の姿があった。
「よく気付くね、お前は――。ただいま」
茫洋とした声で、黒コートをまとった彼は呟いた。
「おかえりなさい」
微笑んで応えながら、彼を部屋へといざなった。
1DKのありふれたマンションの一室。
長い間閉じ込められ、男たちの性処理人形として生きてきたあの世界で、突然表れた彼の前で気を失って、次に気がついた時にはここのベッドの中で一人寝ていた。
再び彼が私の前に現れ、ごく簡単な話を聞かされたのはそれから数日後のことだ。
それまでも、それ以降から今までも、この部屋のドアに鍵はかけられていない。
出ていこうと思えば自由に出られるようになっていたが―そもそも行くあてもないが―私は出ていこうと思わなかったし、実際に一歩も出たことはない。
それ以来、私の世界はこの部屋と彼となった。
私は二人分のお茶を入れ、ソファに腰かけた彼に出した。
彼が訪れた時にお茶ぐらいは入れたいと、私が唯一彼に云ったわがままに応えて置いてくれたものだった。
彼がこの部屋に来るのは、完全に彼の気まぐれである。
三日ほどで顔を出す時もあれば、ひと月くらい姿を見ない時もある。
それでも食糧だの生活必需品だの本だのが定期的に届くので、安否だけは何となく判った。
「こっちにおいで」
彼がそう云いながら、自分の左側を叩いた。
私は云われた通り彼の横に並んで座る。
その肩をグイと引かれて、自然に彼の肩に頭を預ける形になった。
彼は左手を私の長い髪に絡めさせて弄びはじめた。
「また読書してたの?」
「先日送っていただいた本が、とても面白くて、つい夢中になってしまう」
「ちゃんと食事と睡眠だけはとりたまえ」
「承知している。いつもそればかりおっしゃる、死神さんは」
彼は一度も名を教えてくれたことはない。
それゆえに私は彼を“死神さん”と呼んでいた。
それで彼が怒ることもなかったので、そのままそう呼び続けている。
名前に限らず、彼は自分自身について何も話さない。
彼はどこの誰で、何をしているのか。
何を思って―或いは何の利益があって―私をここへおいていてくれるのか。
何も話さない。
私も彼に何かを問うことはしない。
もしかしたら、簡単に答えてくれるのかもしれないが、特に聞き出そうとも思わない。
ただ、今日のように、時々現れてはこうして隣に座ることを許され、彼のぬくもりを感じられる時間があることだけでいい。
また次に訪れる時を、この部屋で不安と期待に呑まれるように待ち焦がれているだけで、私には幸せであった。
確実に私は彼を慕っている。
もちろん恋愛感情としてでもあったし、信仰の対象としてでもあった。
美しい死神を恋慕い、崇拝してもいた。
それ故に――
ここを出ていけと云われることだけが、今の私にとって死の宣告よりもずっと恐ろしいことであった。
それに、命など、彼に初めて会った時から彼のものである。
もし彼が私に飽きたとしても、ここにいることは許してくれたなら、いつものように彼を待ち続けて死んでいける。
そのまま特に何を話すこともなく、ひたすら時間が過ぎていく中で、私はその時間に浸っていた。
幸せな時であった。
陽はすっかり沈み、薄闇が部屋を染めていた。
「さて――」
ふと、彼が呟いた。
いつもと同じ、美しい、闇を纏った声であった。
「そろそろ、出かけようかな」
「・・・」
スッと立ち上がり、彼はスタスタとドアの方へ歩いて行く。
その後を無言で着いて行く。
ドアの前まで来て、彼は足を止め、クルッとこちらを振り返った。
黒い腕で、そっと抱きしめられた。
意外に逞しい腕で、優しく包むように抱きしめられる。
いつもと、同じように――。
「―――」
彼がささやく。
――いつもと、同じように。
いつも、この部屋を出ていく時、彼は何かをささやいた。
この全くの静寂であるのに、その言葉はいつも風の呟きのように曖昧だった。
それでも必ず、彼は同じように抱きしめながら同じ言葉をささやく。
私の名なのか、彼の名なのか――
好きなのか、嫌いなのか――
ここに居ろなのか、出ていけなのか――
―――それでも
ス、と彼が私から離れた。
見上げると、美しく微笑んだ彼の顔があった。
―――それでも、私は・・・
「じゃあ――」
彼は云う。
「いってくるね」
帰るね、ではなく。
だから私は、ここから離れられない。離れるわけにはいかない。
「いってらっしゃい」
私は――いつもと同じように、彼に微笑んだ。
あの・・・せつらも好きなんです――メフィのこと。
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