白い美しさが戸山住宅を後にしようとしたのは、その存在に相応しい逢魔が刻であった。
この男にとって所用とは如何様なものなのか――兎に角、彼は所用を済ませ、病院へ戻るところであった。
その気配に彼は、始めから気が付いてはいたものの、特に触れもせず、彼らの“縄張り”の外へと向う。
漸く背に声を掛けられたのは、外と内、の境であった。
「あ、あの――」
闇の色を纏った声は、普段のハリも力もない。
「何かな?」
闇夜に浮かぶ月の声は、普段と変わらぬ風で応えた。
「え、と。ドクター・・・とお呼びしても構わないのですか、貴方も?」
「一応、医師と自称しているのだが?」
「そういう事ではなくて、ですね・・・」
「私は“魔界医師”ではないが、“ドクター・メフィスト”ではある」
「・・・その辺りの所は、私などには理解しかねますが」
苦笑を漏らす闇の声は、最初の一声からは大分和らいだ感じになった。
とはいえ未だ本来の様子とは似ても似つかぬ彼を、“ドクター・メフィスト”は漸く振り返った。
闇を纏う青年は、対峙する月の美しさを受け止めて、より暗く輝いている。
「ダミーで宜しければ、お話伺おう」
「寧ろ、貴方だから良いのかもしれませんがね」
彼らの色に染まっていく西の空を背に、メフィストは柔らかな表情で言った。
その柔らかさは、「医師」というよりは、友に向ける人間らしいもののように、夜香には感じられた。
名ばかりの小さな公園には、とっぷりと日の暮れた時間ともなれば、人の気配は殆どない。
人以外の何かが蠢く気配が絶えずあることもあるが、やはり戸山住宅近辺、という土地柄の所為だろう。
朽ちた様なベンチに腰掛けながら、夜香はそっと隣の医師を見た。
万人を救う美しいその手には、直ぐそこの自販機で買った缶コーヒー。
お茶でもしながら伺おう、という彼の提案に反対する理由もなく無言でついてきた夜香だったが。
流石に、自販機にコインを入れながら、君はどれにする?と言われた時には、相談相手を間違えた、と深く後悔しかけた。
区民が抱いている「ドクター・メフィスト」像とはかけ離れている。
とは言いながらも、2人揃って微糖珈琲を選んでしまうあたり、自分でも笑えてくる。
そんな夜香の心中を、解かっているのかいないのか。
メフィストは、主以外から恋愛相談を受けることになるとは、思っていなかったな、と呟いた。
何も言う前から本題に踏み込んでくるのは、このダミーの性格だろうか。
「貴方の主の所も、悩みがあるのですね」
「悩みというよりは、惚気に近い」
「それは平和という事でしょう?」
「君は、平和、とやらではないのかね?傍から見ていれば、実に仲睦まじいようだが」
主が時々、羨ましいとぼやいている、と嬉しそうに愚痴を零すメフィスト。
あのドクターが?と苦笑を漏らす。
「それは、勘違いというやつですよ」
「ほう?」
「そうですね・・・」
夜香は、肩を竦めながら、小さく溜息をついた。
夜香がその男――屍という人物に抱く感情が、憧れだとか畏怖だとか、そういった類のものとは少し異質だと自覚したのは、
彼と親しく付き合う様になった時間に比べれば、随分最近になってからの事だ。
詰まらない言葉で言ってしまえば、「特別」な存在と感じている自分に気が付いたのである。
それは、確かに憧れであったり、畏敬や畏怖の念であったり親しみであったり、負の方向に向かう感情も少なくないだろう。
ただ――
それだけではない気が、夜香にはした。
「奪いたく、なったんですよ」
夜香にとって屍という存在は、沢山の感情を抱かせるものだった。
彼と会い、話をし、行動を共にする中で、夜香は屍に様々な思いを抱いた。
「それだけでは、足りなくなってしまったんですよ」
闘いの中で見せる激しさ。
強い信念に導かれる行動。
そして、偶に見せるあたたかい表情。
この人の瞳に、私はどう映っているのだろうか。
この人の行動に私という存在が僅かでも影響しているのだろうか。
「あまりにも、在り来りすぎて、お話しするのも恥ずかしいのですが」
「三流恋愛小説のような科白だな」
「ご尤もですよ。自分でも呆れるほどに」
遠慮のないメフィストの言葉に、安堵しているというのも、もう重症だろう、と自嘲的な笑みが浮かぶ。
「しかし、案外、そういったものの言っている事が正しいのだ、とふと思ったりもします」
「そのようだな」
「おや、ドクターもそう思われるのですか?」
「主が、だよ。よくもまあ、あれだけ少女漫画の主人公の様な生活が送れるものだ」
「貴方の口からは、あまり聞きたくなかった単語が沢山飛び出してきますね」
お互い様だろう――と、メフィストは肩を竦めた。
おっしゃる通り、と答える。
すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み込む。
「君たちは、正式に付き合っている訳ではないのかね?」
「ええ、まあ・・・いえ。一応、此方の気持ちはお伝えしました」
そうか、で終わってしまったんですけれども、と付け加える。
「そういった方向は解らん、ともおっしゃってました。でも、私の事を嫌いでもないとも」
「益々もって、お決まりの話筋だな」
「実は、結構お読みになってらっしゃるんですか、ドクター?」
「さて?」
告白、というには若干気色の違う雰囲気ではあったものの、夜香は正直な気持ちを屍に伝えた。
そのまま、変わらぬまま――寧ろ、関係は強いものになったかもしれない。
「でも、所謂恋人同士になりたい訳でもないんです。ただ――」
ただ、奪いたかったのである。
「彼の中の領土を奪って、そこに私という存在を置いてみたかった――いえ。何となく違いますね」
何と言ったらよいのでしょうか――言葉とは、難しい。
「受け身では居られなくなった、という事ではないのかね?」
「受け身?」
「応えが欲しくなった、ということかね?」
「ああ、成程」
愛とは愛されたいと願う事――とは、誰の言葉だったか。
「まあ、主が正しくその悩みの真っただ中なのだが――」
「ははは」
「では、1つ訊く。君は、どのような応えを求めているのかね?」
「……え?」
「小説の様な甘い言葉かね?恋人らしい対応かね?それとも――」
「……?」
「君にかかわる時にしか見せない、こういった困った態度かね?」
「え?」
「随分と愉しそうな話をしているようだな、ドクター?」
「え?」
振り向く夜香の瞳の先。
クスリ、と色々な感情を含ませた笑みを浮かべるドクターと。
その漆黒の髪が流れる後頭部に突き付けられた、鈍色に光る武器と。
それをしっかりと構えている、趣味がいいとは言い難い派手なコートの袖と。
「え?」
「正しく三流恋愛小説の様な展開だな、屍君?」
「生憎、そういったものは手に取らんので解らんな」
「今度貸して差し上げよう。少し勉強するといい――困った“恋する乙女”の相手は1人で手一杯だ」
「え、…え?」
「君も、『え』以外の音を発声したまえ」
「え……」
「おい、夜香」
「えっ!?」
いつの間に仕舞ったのか彼の手に武器はなく、代わりに握られた拳で、愉快そうに笑うメフィストの頭をグイグイと殴っている。
一体どれだけの人が、この医師―ダミーとはいえ―に、こんな行為を出来るだろうか。
こんな情景にですら嫉妬してる自分が厭になる、と言いながらどこかで充実している事にも気づいている。
未だにこの状況に混乱している頭が、さも冷静そうにぐるぐると無意味な思考を繰り広げる。
ああ、これが恋というのだろうか――と口に出したくもない「三流恋愛小説のセリフ」を飲み込んで、夜香は苦笑を洩らす。
「何笑ってやがる」
「あ、いえ」
「幸せそうで何よりだ」
あんたは少し黙ってろ、ともう一発拳骨を食らわせる屍に、少しでいいのかね?と態度だけは大人しく殴られるメフィスト。
「黙る事しかできないようにしてやってもいいんだがな」
イラついた様子で舌打ちをして、彼はすらりと身を翻したていった。
「帰るぞ」
「あ」
背中越しの言葉が自分に向けられたものだと、一瞬遅れて理解し。
慌ててダミーに助けの視線をやれば、彼は慈愛に満ちた笑みを浮かべて無言で頷く。
もう一度派手な後姿に目をやれば、もう大分先を歩いている。
夜香は考えることを中断し、急いで駆け出した。
闇は外套を靡かせながら振り返り、ベンチの月に声を掛けた。
「コーヒー、ご馳走様でした」
声音に、先程の様な弱さも戸惑いも見られない。
「これは、治療代を頂かんといけないかな?」
その呟きは、白い月光の浮かぶ闇夜に優しく溶けていった。
2222hitを踏んでくださった伯さまからのリクエストで、
「屍さんと夜香さんがメインのss」
・・・という事だったのですが(汗)
ほぼ、ダミーと夜香さんぢゃん!?
屍さんと夜香さんって、難しい(あわわ)
こんなんで宜しかったら(宜しく無いと思われ・・・)お受け取りくださいませ。。。